書きかけたまま放置されている原稿がある。「雲の伯爵」こと阿部正直の評伝である。遺品が博物館へ寄贈され、展覧会を企画立案するなかで、阿倍の類稀な人物像に打たれ、世に知らしめずにいられないとの思いに囚われた。東京下町の料亭の大広間で「キネマトグラフ」の初上映会に立ち会い「動くイメージ」の魅力に取り憑かれた。齢八才のときのことである。十代半ばには自作の箱形カメラで、静止画だけでなく動画の獲得に成功している。今日云うところの「ドローン」に近いものを工作し、高いところから地上を見下ろす写真まで、大正時代に考えていたのである。江戸幕府で筆頭老中を務めた福山藩主の家を継ぎ、御一新後に「伯爵」となった正直は、一代で家督のすべてを富士山頂に生成する山雲の研究に費やした。「殿様の酔狂」と揶揄されながら、最終的に、雲の生成過程を動画で記録し、3Dで可視化してみせた正直の功績は、世界的に見ても画期的なものであった。「戦前」ということで忘却させるのは、あまりにもったいない人物なのである。
西野嘉章(インターメディアテク館長・東京大学総合研究博物館特任教授)