サン・マルタン・デュ・カニグー修道院は、フランスのピレネー山中に11世紀初頭に建てられたベネディクト会の修道院である。長らく廃墟と化していたが20世紀に修復された。ロマネスク建築史の書籍でその存在を知り、独自のたたずまいに強く惹きつけられた。数年後、幸運にも現地を訪問する機会を得た。公共アクセスがなかったので、鉄道駅を降りてヒッチハイクし、山麓の集落からはつづら折りの山道を歩いた。登りきると、断崖の淵に寄りそう修道院の全景を見渡せる場所がある。都市の大聖堂に比べれば規模はずっと小さい。教会堂とクロイスター(回廊)が隣接した基本形を保ちつつ、峻険な地形に合わせて建物の平面の角度が振れ、地盤の高さが変化している。高所に置かれた教会堂は翼廊のない2層構造で、クリプトの上部にトンネルヴォールトの身廊と側廊が載る。個性的な柱頭を冠した回廊は、天空の別世界をつくっている。古代技術の流れを汲む石積みは、粗々しくも緻密である。まずはこの地に祈りと共住の場を創ろうとした中世の人々の営為に心を打たれる。さらに初期ロマネスク建築の素朴な意匠に魅了される。分厚い壁面、彫塑的な空間、小さく豊かな光といった感覚的な記憶がよみがえる。しかし、後に続くゴシック建築のような、壁面の減少、構造の自立、垂直の追究といった一貫する特質には還元しにくい。建築が論理的に構成される前段の、身体感覚に直結した空間の力動性がそこにある。カニグー修道院のピクチャレスクな様相は、必ずしも理想型の「変形」ではなく、人間と環境の共生と格闘から生み出されたものである。
松本文夫(東京大学総合研究博物館特任教授)