植物画家・山田壽雄によるコケモモの写生図には、画面中央には実をつけた全体図が、上下に貼付された2枚のパラフィン紙には花が描かれている。画面下の1枚には、花の各部から引いた線の先に、「ウスミドリ」、「カーマイン」、「乳白ノ上ニ極ウスアカ」、「極ウスミドリ」との文字があり、これらは印刷用の色の指定と考えられる。裏面には「コケモモ 1/1 大正4. 9. 1. 信州産 本山氏ヨリ」との書付がある。実物大の写生図であること、制作年月日と採集地、そして、植物学者・牧野富太郎と交流のあった本山佗吉という人物よりコケモモが山田にもたらされたのではないかということがわかる。コケモモが出てくる小説に関する私の朧げな記憶を辿ったところ、ブロンテ姉妹の『ジェーン・エア』と『嵐が丘』に行き当たった。両作品とも、英国ヨークシャー州のムーア(荒地)が舞台となっている。コケモモは、前者では、不幸な生い立ちのジェーンがようやく見つけた幸せ(結婚)が崩れ去り、絶望の中ムーアで迎えた朝に、ヒースの茂みで見つけたコケモモの実で空腹を凌ぐという場面に登場する。後者では、錯乱の末、娘を出産して息絶えたキャサリンが、礼拝堂内の婚家や身内の墓碑の下ではなく、教会墓地の片隅に埋葬され、その墓の周りにムーアのコケモモがヒースとともに塀を越えて入り込んでいる様子が描写されている。しかし、今回これらの小説の記述を調べる過程で、「コケモモ」と翻訳された植物が、原文では「ビルベリー(bilberries)」であることを知った。この置換えには、海外文学の翻訳家の苦労と工夫が透けて見えてくる。しかし、山田の図に描かれているように、コケモモ(Vaccinium vitis-idaea L.)の実は赤色であるが、ビルベリーの実であれば黒色である。ジェーンの心情には赤ではなく黒が似合うように思われるし、キャシーの墓の周りに実るのが赤い実か黒い実かは重大な違いがあるのではないかと、今までは想像しなかった色の問題に驚いたのであった。
寺田鮎美(東京大学総合研究博物館特任准教授)