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HAGAKI
RESEARCHERS COLUMN

横浜港鎖港談判使節団の「面貌」

 写真左は江戸時代末期の外国奉行池田長発(28歳)、右は日本初の医学博士の一人三宅秀(16歳)である。両者ともに、文久3年(1863)12月から翌年7月にかけて派遣された幕府遣欧使節団の一員で、滞在先のフランスで撮影された。通称横浜港鎖港談判使節団とよばれ、安政五箇国条約によって安政6年(1859)に開港した横浜港の再鎖港要求を目的として派遣された。当時目付兼外国奉行の池田はその正使として交渉にあたったが、結局失敗に終わった。池田は攘夷論者であったが、帰国後は開国論者に転じ、幕府からは役目不履行を理由に蟄居を命ぜられ、不遇の余生を送った。一方、三宅は組頭田辺太一の従者として随行した。滞仏中に「解剖場」や外科道具の店を訪れ、大いに見分を広めて帰国し、明治から昭和初期にかけて日本の近代医学の普及と教育発展に寄与した。同時期に撮影された写真の「面貌」から、その後の異なる命運にも思いを致すことができる。

白石愛(東京大学総合研究博物館特任助教)

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